日記の実践
千年の小さな日記
日付つきの記録は千年のあいだ既定の形だった。平安の日記、ロックの索引、ピープスの日々の記述、今日の一行アプリ。ひとつながりの形。
現代の日記アドバイスには分量の問題がある。モーニングページ三枚。バレットジャーナルの見開き二ページ。二十分の表現的筆記。その形式は、まるで分量こそが目的であるかのように、量のない日記は日記ではないかのように読める。
歴史の記録はそれに同意しない。平安後期の日本から、ヨーロッパのコモンプレイス・ブックを経て、サミュエル・ピープスの九年半におよぶ日々の記述まで、個人の文章が取ってきた支配的な形は、短く、日付があり、積み重ねるものだった。バレットジャーナルの時代こそが例外なのだ。これは一行日記を新しいと感じさせた長い歴史についての、実践の柱の記事である。
平安が発明した、日付つきの覚書
九三五年、宮廷歌人の紀貫之は、四国の土佐国から平安京への五十五日の旅を終え、その記録をかな、つまり仮名文字で、女性の語り手という仮構のもとに書き留めた。彼は、自分が乗っていた船よりも長く生き延びることになる賭けで筆を起こす。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」[3] 各項に日付がある。多くは一文か二文。彼が発明しつつあった形、すなわち日記は、その後千年の日本文学が受け継ぐことになる、日付のついた日々の散文である。
それから六十年後、女房の清少納言は別の種類の本を書いた。『枕草子』、千二年ごろのもの、これは日記ではない。「筆に従う」という意味の随筆であり、宮廷の逸話と並ぶ三百ほどの段から成り、そのあいだに目録が差し込まれる。「心ときめきするもの。にくきもの。あてなるもの。」[2] 各目録は短い。各項目は感覚的な観察ひとつぶん。この形式は、現代の読者のための作業用の型として五つのまなざしの記事が用いる、小さな気づきのカタログである。
ドナルド・キーンの概観『百代の過客』は、貫之から江戸期の旅日記までの日記の系譜を辿る。宮廷女房、僧侶、武士、旅人によって書きつがれた、千年にわたる短い日付つきの個人の散文。[1]
貫之から六世紀半ののち、俳人の松尾芭蕉は本州北部を二千四百キロメートル歩いた。一六八九年の旅の記録である『おくのほそ道』は、俳文で書かれている。五十語から百五十語ほどの日付つきの散文の段が、それぞれ俳句に着地していく形だ。[4] 一段に一景。現代の小さな日記との構造的な響きあいは偶然ではない。同じ形が、別の聴き手に向いているだけだ。
マルクス・アウレリウスとジョン・ロック
西洋の伝統もまた、独自の短い形を生んだ。一七〇年から一八〇年のあいだのいつか、マルコマンニ族との軍事行動の最中に、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは自分自身に宛てたギリシャ語のノートをつけていた。第一巻には「クァディ族の地、グラヌア川のほとりで」、第二巻には「カルヌントゥムにて」と内部に日付がある。『自省録』は出版を意図して書かれたものではなかった。多くの項は一文から一段落で、各巻の内部では日付がついていない。メリック・カゾーボンの一六三四年訳は、自分自身に短く語りかける文体を保っている。[5]
how easy a thing is it for a man to put off from him all turbulent adventitious imaginations, and presently to be in perfect rest and tranquillity.
名前以外はすべての点で日記と呼べるもの。戦場で、戦と戦の合間に、ひとりで、短く書かれた。
それから十五世紀ののち、ジョン・ロックは方法を発表した。一六八五年にニコラ・トワナール宛ての手紙として書かれ、一七〇六年に英語に翻訳された『コモンプレイス・ブックを作る新しい方法』は、西洋の読み書きできる階層が支配的に用いていた記憶の実践を成文化したものである。[6] コモンプレイス・ブックは日記ではなかった。それは、主に読書からの抜粋である断片を、主題ごとの「見出し」のもとに、二ページの索引とともに索引化して積み重ねたものだった。ロックの扉ページの自負は、それ自体がひとつの宣言だった。「正確な索引が二ページで作れる方法」。本は索引のためにあった。索引は引き出すためにあった。
それを持たないヨーロッパの読み書きできる人間こそが例外だった。個人の文章の既定の形は、長くて物語的なものではなく、短くて索引化されたものだったのだ。
サミュエル・ピープスの頻度の、ほんとうの形
英語で最も引用される日記は、ロンドンの海軍行政官のものであり、彼はそれを速記で書き、私的に保ち、目が衰えはじめたところで筆を置いた。サミュエル・ピープスの日記は、ロバート・レイサムとウィリアム・マシューズによる全十一巻の『新・完全翻刻版』で、一六六〇年一月一日から一六六九年五月三十一日までの記録である。[7] 通例の読みは、この日記をその劇的な内容、すなわち一六六五年の疫病の夏、一六六六年九月の大火、を軸として枠づける。だが頻度の記録は別の物語を語っている。
フィル・ギフォードの『pepysdiary.com』アーカイブから日付つきの項目をすべて拾うと、実数はこうなる。
dated entries on pepysdiary.com, 1 jan 1660 to 31 may 1669
3,422 / 3,428
pepysdiary.com
データに即して語れば、ピープスの日記の物語は、その劇的な出来事ではなく、ほぼ完全な矩形性のことだ。彼は、ロンドンの半分が逃げ出していた疫病のあいだも書いていたし、大火が自分の通りまで届いた翌日も書いていたし、一六六九年五月の三十一日連続でも書いていた。最後の項はこう終わる。「and thus ends all that I doubt I shall ever be able to do with my own eyes in the keeping of my journal, I being not able to do it any longer.」
書くのをやめたのは、もう見えなくなったからである。書くことが尽きたからではない。何百もの項が同じ五語で閉じられる。「and so home and to bed.」 日記の大半は、食事、金銭、妻の機嫌、用足し、説教、タールの値段交渉である。劇は少数派の報告だ。
グラスミアから一日一秒へ
英国ロマン派の記録者たちも、同じ形を保った。ドロシー・ワーズワースの『グラスミア日記』は一八〇〇年から一八〇三年まで、短い日々の項目で書かれている。天気、散歩、庭仕事、手紙、病気のこと。[8] 一八〇二年五月のある土曜日の項は、その全文がこうである。「八時半まで起きなかった、天国のような朝。朝食が済むとすぐに、私たちは庭に出て、家のまわりに緋色のいんげん豆を蒔いた。」Dorothy Wordsworth, Grasmere Journal, ed. William Knight (Macmillan, 1897). Public domain. 彼女がこの日記をつけていたのは、ひとつにはウィリアムが詩のために素材を採れるようにするためだった。一八〇二年四月十五日のアルズウォーターの水仙についての項が、二年後に「I Wandered Lonely as a Cloud」の源泉となる。簡潔なログが長い詩を養った。逆ではなかった。
一九三〇年代の終わりごろには、五年日記は文房具屋の普通の商品になっていた。日付ごとに罫線が引かれた五行が用意されていて、買い手は同じ暦日を五年分、一ページの上に書きためることができた。クロニクル・ブックスは二〇〇九年にこの形を『One Line A Day: A Five-Year Memory Book』として再刊した。ポッター・スタイルが二〇一〇年に『Q&A a Day for 5 Years』で続いた。Day One は二〇一一年三月に iPhone で立ち上がった。セザール・クリヤマがその翌年、のちに『One Second Everyday』となるTED トークを行なった。形式は、九三五年に、千二年に、一六六〇年にそれが取っていたのと同じ形に収束した。短く、日付があり、積み重ねられ、その日のために保たれる。
ジャンルは構造ではない
注意深い読み手は、これらのどれもが同じジャンルではないと反論するだろう。清少納言の目録は宮廷の文学的な所作だった。貫之の『土佐日記』は女性の人格を借りた虚構の旅行譚だ。マルクス・アウレリウスは戦と戦のあいだに自分自身に宛てた倫理学をギリシャ語で書いた。ロックのコモンプレイス・ブックは他人の著作からの抜粋であって、その日の出来事ではない。芭蕉は弟子という聴き手のために書いた。ピープスは誰のためでもなく暗号で書いた。Q&A の五年日記は自己追跡用の贈り物の本だ。『One Second Everyday』は無音の動画である。
反論は中身については正しい。だが、運ばれているものを取り逃がしている。千年を越えて生き延びたのは構造である。短く、積み重ねられ、自分自身に宛てた項目。エッセイより頻繁に、手紙より短く書かれる。中身は世紀ごとに移り変わる。形は変わらない。一年前の今日に戻るという実践であるアニバーサリー・リードは、現在のどの用途よりも古い構造の、後ろ半分にあたる。
何が運ばれるのか
現代の日記の中身が分量を求めるのは、白紙のページが分量を示唆するからだ。この移り変わりは最近のものである。バレットジャーナルの見開き、モーニングページの三枚ルール、感謝日記のテンプレート。これらすべては、日記に対して測定可能な何かを「達成する」ことを求めた生産性文化の内側に到来した。前近代の日記は、生産物によって自分を正当化する必要がなかった。宮廷の女房、出征中の皇帝、索引を作る哲学者、海軍行政官は、自分を直すために書いていたのではない。日が記すべきものだったから書いていた。現代の例外は分量ではない。日記が自分の食い扶持を稼げと求められていることのほうである。
形は、一行日記が受け継ぐ形である。一文、日付つき、保たれる。一日に一度、千年のあいだ。
参考文献。
- 1.Keene, Donald (1989). Travelers of a Hundred Ages: The Japanese as Revealed Through 1,000 Years of Diaries., Henry Holt.source
- 2.Sei Shōnagon (1967). The Pillow Book (Makura no Sōshi)., Columbia University Press.source
- 3.Ki no Tsurayuki (1969). Tosa Nikki (The Tosa Diary)., University of California Press.source
- 4.Matsuo Bashō (1996). The Narrow Road to Oku (Oku no Hosomichi)., Kodansha International.source
- 5.Marcus Aurelius (). Meditations (Ta eis heauton)..source
- 6.Locke, John (1706). A New Method of Making Common-Place-Books., A. and J. Churchill (in Posthumous Works of Mr. John Locke).source
- 7.Pepys, Samuel (1970). The Diary of Samuel Pepys: A New and Complete Transcription., G. Bell & Sons / Bell & Hyman (UK); University of California Press (US).source
- 8.Wordsworth, Dorothy (2002). The Grasmere and Alfoxden Journals., Oxford University Press (Oxford World's Classics).source